困難に直面した時にリーダーの資質が鮮明になる。
平時には、見えない本質。
国はそれぞれ違う。
都道府県もそれぞれ。
会社も、コミュニティも、家庭も、それぞれ違う。
文化も、背景も、状況も何もかも違う。
だから、有事の選択は同じにはならない。
選択や決断が違うのは、それはいい。
でも、ついて行こうと思えるかどうか。
そこには、文化も、背景も、状況も1ミリも影響しない。
「あなたが言うなら、私は我慢する、協力する、できることをする。」
一人一人がそう思えるかはリーダーの言動、振る舞いにかかっている。
リーダーが、その身を投げ出しているか。
平時には誤魔化せても、有事にはそのあり方が透けて見える。
今回の国難には、その違いが鮮明に浮き彫りになっているように感じる。
人との接触を8割削減すると言うなら、本気が問われる。
国民の命を守るための感染対策をしているのか、それとも経済対策をしているのか。
命を救う感染対策だというなら、補償も、融資も含めて全財源を出しまくればいい。
出して出して出しまくればいい。
国民の命が大切というなら全部出せばいい。
お願いしますと要請するだけでも、日本人なら自主的に自粛し休業するはずだと言う人がいる。
国民の自主性に任せていれば乗り切れる、日本人は民度が高いと言う人もいる。
命令や指示をしなくても一人一人が自分で考えて動くと。
それは卑怯なやり方だ。
言わなくてもわかるでしょ?
と言うのか。
笑わせるな。
それならリーダーなんて必要ない。
そもそも、今まで世界を救ってきたのは名もなき人たちだ。
日常を精一杯生きている人たちだ。
政治家でもリーダーでもない。
じゃあ、なぜリーダーが必要か。
道を示し、行く先を光で照らすためだ。
熟考し決断することで道を示し、
覚悟を持って行動する姿が光となる。
リーダーはそのために存在している。
集まってきた情報を元に、決断もしないで要請するだけというなら、それはリーダーじゃない。
ただの事務方だ。
不都合なことを誤魔化し隠蔽するためにその地位があるんじゃない。
責任を取らないで保身のために権力が託されているんじゃない。
平時は、言葉で惑わせても、
有事に、言葉は要らない。
決断が早いとか遅いとか、意味があるとかないとか、そこじゃない。
本気かどうか。
どんな時も、問われるのはそこだ。
起きているすべての現象は、己自身の鏡。
自分を激しく省みる日々です。
一歩一歩だ。